「おや、お目覚めですか?」
長い眠りから覚めてみると、傍らで自分の式が座っていた。
いつものように、とも言える自然さで。
おそらくは、自分の目覚めの言うものを予期して、そこで待っていたのだろう。
賢く、律儀な子だと思う。
今しがた目覚めた『彼女』は、しかし目覚め直後の気だるさを感じることなく、ただ欠伸を一つだけして傍らの式に向けて口を開く。
「ふぁ……おはよう、藍」
「おはようございます、紫さま。……と言っても、もう昼なのですけどね」
「そういう細かいことは気にしないでいいのよ」
もぞもぞと彼女は寝床から這い出す。
ゆったりと歩き、一室の戸口から外を窺い見れば、そこにはうららかな陽射しが外の風景を温かく包んでいる。
眠りの前は冷え冷えとした空気でうら寂しい雰囲気があったのだが……季節を跨いで眠ったためか、冷え冷えとしたものより更に冷たい景観は、もうそこには無いようであった。全体的にはまだ冷たさは残っているものの、それもわずかな日が経つだけで終わってしまうことであろう。
「もう春なのかしらね」
「そうですね。もうすぐお花見の季節ですよ。去年は花の異変とかでいろいろと慌しかったですけど、今年はのんびりと過ごせそうです」
「花の異変か……」
藍、と呼ばれた我が式が穏やかに声をかけてくるのに、少しだけ彼女は感慨深くなる。
そういえば去年の今頃はそんなことがあった、と。
幻想郷のいたるところに様々な花が咲き乱れると言う現象。幻想郷の自然の三系統が一巡するのにかかる年月――六十年に一度、起こる出来事だ。
六十年に一度であるが故に忘れがちだったのだが、去年ソレが起こったことで、今は異変についての記憶も、『何故六十年なのか』という理由も鮮明である。
ただ、その前――去年の六十年前に起こった花の異変の詳細については、もうほとんど忘れがちだった。どのようにして異変が起こり始めたのか、どんな風に花は咲いていたのか、異変はどのようにして結末を迎えたのか。
さすがに長い年月を生きているとなれば、記憶が曖昧になる。
六十年前の今頃も、自分はそんなことを思っていたのかも知れない。
――そんなことを思いながら。
ふと、記憶の片隅に蘇るものがあった。
「藍」
「はい? なんでしょうか、紫さま」
「私は六十年前の今頃、どこに行っていたのかしら?」
「いきなり唐突な質問ですね。う〜ん、六十年前……っていっても、紫さまは基本的に神出鬼没だからなぁ。どんな時でもいつの間にかふらっと出かけてますし」
「真面目に答えなさい。あなたなら、その時のことを憶えてるはずよ」
「紫さまは憶えてらっしゃらないのですか?」
「憶えていないから訊いているのよ」
「はぁ……」
要領を得ないながらも、うーんと腕組をして瞑目して、藍は思考をきちんと巡らせてくれているようだった。
なんだか悪いわね、と思いつつも、賢く利口なこの子ならばあるいは、とも思える。
そう。
花の異変の翌年、いつも、足を運んでいた場所がある。
これもまた、六十年に一度、というサイクルで。
それはおそらく何百年も前から続いていたことで、その場所に足を運んでいた理由については、今や忘却の彼方であるのだが。
……そして今、あの場所についてのことを、自分は思い出せないでいる。長年生きてきた記憶が曖昧であるがゆえに。
「確かに、紫さまは六十年前、境界の外にお一人で行かれていたようですが……」
「そう、そうね。幻想郷の外に、私は行っていたのね。それで、外の世界のどこに行っていたのかしら」
「正確な場所まではわかりませんよ。私が実際にそこに行ったわけでもなし」
「あら、残念」
どうやら、空振りに終わったようである。
そういえば六十年前は藍を連れていっていなかった、と言うのも今ここで思い出した。おそらくは、その前、ずっと前についても。
だというのに、自分がどこに出かけているかなんて正確に答えろ、と求めるのも酷な話だ。
「と言うより、紫さまがその場所を憶えていないってことは、そこがそんなにも特別ってわけでもないのでは?」
「特別……といえば特別でもないかもしれないわね。ただ、花の異変の翌年はそこに行かないと、どうもしっくりと来ないのよ。例えて言うならば、そう、餡子の入っていない桜餅を食べたときとか、白玉楼に遊びに行ったら幽々子が食欲不振になっていたとか、宴会を開いたら萃香が酒を一滴も呑まなかったとか、そんな感覚に近いかもしれないわね」
「わかりやすいようなわかりにくいような……」
藍はもう一度腕組して『う〜ん』と唸ったのだが。
あまり間を持たせず、『よし』と何かを決めたかのように一つ活を入れ、自分に向かってにっこりと微笑んで見せた。
「では、私が探してきましょう。紫さまの言っているその場所とやらを」
「あら。いいの?」
「はい。橙にも声をかけますから、すぐに見つかることでしょう」
自分が眠っている間もいろいろ動いているというのに、目覚めたこの時に限っても、藍は自分のために動こうとしてくれている。
良い式を持った、と我ながらに思う。
「でも、『外の世界』というだけの情報では、探し出すのはキツイのではなくて?」
「ええ、そうなんですけど……今思い出してみたら、紫さまは六十年前のあの時、『花見に行く』と言っていたような気がします」
「…………」
そうだった。
自分がそこに行く目的は、まさしく、花見のためだった。
……花見だったら神社や白玉楼でも出来るだろうに、何故、この時に限ってはそこで花見をしようとするのか……という理由については、今は考えないことにした。
「ですから、紫さまの好きそうな花見の名所をいろいろと当たってみます。後は紫さまが直に確認してくだされば」
「わりと大雑把だけど……まあ、手がかり自体が皆無だから、正しい手法ではあるわね」
といっても、目的が花見であるならば、時間というものがわりと限られてくる。
世界というものはわりかし広い。
自分のように境界を操る能力を持たない藍たちでは、その場所を探し当てるのはかなりの手間である。
はたして、花見が出来る時期のうちに、藍達は、その場所を探し当てられるかどうか……。
「では、これから行ってきますね」
「待ちなさい」
出て行こうとする藍を、ゆったりと呼び止める。
もう少し、手がかりが必要だと思う。今からその場所を探す藍たちのためでもあるのだが、自分の目的のためにも。
まだ、何か思い出せないだろうか……。
「どうされましたか」
「…………」
「紫さま?」
必死、といわずとも、出来るだけ記憶を手繰り寄せてみる。
花見、ということを聞いて、わずかに思い出したことがあるからだ、
六十年より以前のその場所での花見のことは思い出せないが、ちょうど六十年前ならば、なにかがある。
そこで見たものは、たくさんの人間の子供達と、一人の老人と、古ぼけた――
「桜の……花の、園」
「?」
「確か、そのような意味合いの何かが、あったような気がするわ」
「……よくわかりませんけど、なんだか大きな手がかりって感じがしますね」
もう一度にこりと笑ってそれだけを言って。
今度こそ、藍は一室を出て行く。直後に『橙、おいで。ちょっと出かけるよ』『わかりました、藍さまっ』とやりとりが遠くで聴こえてくる限りでは、俄然張り切っているようだ。
すぐに見つかるかもしれないし、でもやっぱり見つからないかもしれない。
まあ、ここは彼女達を信じるしかないのだろう。
「……さて」
誰も居なくなって、どうしようかと思ったのだが。
やはり、特別、何かをするとなれば。
「もう少し、思い出してみようかしらね」
それだけを、呟いて。
――八雲紫は、追憶を始める。
六十年前の花見の風景と。
そして出来るならば、その場所で花見をすることになった発端についても。
新しく始めるにしても
同じことを繰り返すにしても
過程はやがて糧となり財産となりえる
――辿った記憶の断片が、紐解けるかのように姿を見せる。
「よう、六十年ぶりか?」
あの日。
八雲紫が面を合わせた老人は、開口一番にこう言ったものだった。
満開に咲き誇る桜並木の下でのことだ。
果たして、その時よりも過去に私はこの老人に会っていたのだろうか……などと、紫は思ったのだが。
おそらく、会っていたのだろう。
確かにあの時、彼の挨拶に対して、紫はこう返したのだ。
「あら、あなたはもしかしなくても、あの時の子供かしら?」
「そういうことだぁな。六十年も経ちゃあ、あんなハナタレ小僧だった俺もここまで大きくなるし、老いもするってことさ」
「不便なものね。私は六十年――いえ、もう何百年経ってもこのままなのだけど」
「あんたと一緒にされちゃかなわねーよ」
くつくつと笑う老人。
人間の寿命は短い。自分達のような妖怪とは違い、多くの者は生と若さを百年も保たせることが出来ない。それは自然の摂理であり、されど長年続けられてきた伝承である。
老人にとって、今目の前に居る八雲紫は、更に六十年前に会った八雲紫そのままの姿なのだろう。
紫にとっては、あの時会った少年は随分と変わってしまったのだなと、その時そう思っていたはずだ。
――そして、それは何度となく思ったことだ、とも。
「それで、今回の花見はあなたがお相手なのかしら? それとも……また、あの時のあなたがそうであったように、あなたの後継者も引き連れてのお花見なのかしら?」
「後継者、ねぇ……そん時は、俺も自覚なかったんだけどな。『ごっつ美人のねーちゃんに会ってウッハウハしねーか?』などと誘いをかけて、知らないうちに勝手に祀り上げやがって、あんのロクデナシの山猿じじいめが。最近滅びたけど」
「あら。美人という点については無視なの?」
「……ま、そこは否定しねーよ。今回の誘いについてもコレ系の文句で奮いかけたことだしでだな」
六十年経っても、歴史は繰り返すと言うべきか。
紫の生きてきた時間の十分の一にも満たない年月なのだが。あの時の子供が今このように変わった姿で居るように、次も、そのまた次も、紫はここに来る度に変わり行く様を見続けていくのだろうか。
それまでに――この桜は続いていくだろうか。この人達は続いていくだろうか。そして、自分の生は続いているだろうか。
答えきるには、六十年と言う年月は微妙に長く難しいのかもしれない。
「でもまあ、俺の場合は強制的じゃねぇんだよな、これが」
「まあ。それはどういうことかしら?」
「見てなって。――もういいぜっ!」
と、紫の問いに対し、老人がふっと踵を返し。
そのように、呼びかけた。
――記憶は、そこで隙間が空いたかのように途切れている。
もう一度、深く辿る必要がありそうだった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
春という季節となると、うららかな陽射しと暖かな陽気、暑くも寒くもない穏やかな気候と、のんびり感のあるイメージが先行しがちになるが。
例えそんなノンビリとした季節であろうとも、上空が厚い雲に覆われ気圧が低くなれば雨は降る。
確率で言えば低いものなのだが、決してゼロではない。
今がその低い確率で起きてる事象の最中であり、叩きつけるような大量の雨粒が空間に音を発し、アスファルトには水溜りを生んでいる。
「本当に、よく振りますね……」
多くの雨粒が着地する人気の少ない路地の中、雨の音よりも劣る声量で、白鳥若葉(しらとり わかば)は呟いた。
赤紫色の傘を差した長身の女性である。シックな紺色の着物に白の割烹着姿。和風リボンでまとめられている長髪、線の細い輪郭と、銀縁眼鏡付きの切れ長の眼。シャープで硬質な雰囲気も兼ねそろえられている。
傘を差していないほうの手には大きめの買い物用の手提げ袋を提げており、如何にも買い物帰りであるという態を示していた。
「降るのは今夜からと聴いていたのですけど……」
一つ、若葉はまた雨音に劣る声量でひとりごちる。
雲が厚すぎてお日様の光が届かず夜に近い空の暗さなのだが、実はまだ、夕刻とはいえない時刻だ。実際、つい一時間前までは雲も薄く、買い物を済ませてしまうには丁度いいと思って出かけた次第であるのだが……どうも読みが甘かったらしい。最近の天気予報はアテにならないということか。
そんな甘い読みの中でも、傘を持ってきていたのは最低限の救いだった。
春とはいえ、長い間雨に晒されたとなると、風邪を引くだろうし病気にだってなるだろう。
少なくとも上を向いては歩けないようなこの雨の強さとなれば、それは殊更といえようか。
そして、
「……?」
上を向いて歩けなかったから、なのだろうか。
道を曲がってすぐの道端にあるソレに、若葉が気付いたのは。
一見してソレは単なる黒い塊のように見えたが、よくよく注視してみると微かな動きを持っており……生きているものだと感じ取ることが出来た。
「大変っ!」
急いでその場に急行する。
一瞬、濡れているアスファルトに足を取られて転びそうになったが、なんとかバランスを崩さずにたどり着く。
道端で丸まっているソレは、一匹の子猫だった。
両手のひらだけで包み込んでしまえそうな小さな体躯、艶やかな黒色の毛並み、そして、何よりも目が行く特徴と言えば――
「……尻尾が二本ある?」
体躯の割には長い尻尾が二本あることだった。二本とも、毛並みと同じく黒が基調なのだが、先っぽだけが白い。
今まで猫というものを飼ったことがないだけにその生態については疎いのだが、果たして、こんな尻尾が二本あるような猫などこの世に存在するのだろうか……。
「にー……」
「あ、そうでした」
足元で鳴いた小さな声に、若葉はハッと我を取り戻す。
例え珍しかろうとなかろうと、今この子が弱っているのは確かだ。
イマイチどのように取り扱ったらいいか分からなかったのだが、とんかく、大きめの布で包んで抱き上げることにする。幸い、手提げ袋の中に携帯用の風呂敷き包みがあったので、それを使ってそっとその小さな体躯を持ち上げる。
抱き上げた子猫は、やはりとても軽かった。
そして、その軽さを感じると共に、
「ん……」
一瞬だけ、なにか……本当に、小さな何かを、若葉は感じ取ったような気がした。
本当に一瞬だけであるだけに、その違和感はすぐに霧散してしまったのだが。
錯覚か何かだろうかと思ったのだが、再度、子猫の小さな鳴き声を聴いて彼女は現実に回帰する。錯覚よりも、現実のこの問題を何とかせねばならない。
「センセイに診てもらいましょう」
もう一度、雨音に劣る呟きを発し、白鳥若葉は子猫を抱き上げたままどうにかして傘と手提げ袋を固定しつつ、早足で路地を歩きだした。
それから十分ほどして。
若葉が辿り着いたのは、町外れに在る広大な敷地だった。
大きめの門をくぐり、公園のような遊具類などが設立された広場を抜け、奥にある青いトタン屋根の大きな建物へと入っていく。
「ただいま帰りました」
大きな建物であるだけに広々としている玄関にて、彼女がそのように声をかけると、
「おかえりー」
「あ、若葉ちゃん、おかえりなさーい」
廊下からぱらぱらと、数人の子供達が出てきて若葉のことを出迎え――そして、彼女が懐に抱いている小さな生き物へと、視線が釘付けになった。
「わー、子猫だー、可愛い〜」
「なにそれー。どこで拾ってきたのー?」
「触らせてー」
「尻尾が二本あるぞー、すげー」
わらわらとこちらへと寄ってくる子供達。
その騒がしさを聞きつけてか、他の子供達もなんだなんだと次々と廊下から玄関ホールへとやってきて、例外なく件の子猫へと視線を注ぐ。
なんだか事態が大きくなってきていた。
「こらっ、駄目です」
「えー、なんでー」
「ケチー。若葉ちゃんだけずるいぞー」
大方予想が出来ていた反応であるだけに、若葉は一つ溜息をつく。
まあ、仕方ないことなのであろうが……生憎、今はこの子達の希望に応えている場合ではない。
「ずるくありません」
ぴしゃりと、若葉は毅然と言い放った。
「この子は今とても弱っているの。今からセンセイに診せてどうするかを早く決めないと、この子が死んじゃうかもしれないのですよ。それでもいいのですか?」
「…………」
弱っている、死んじゃう、というフレーズを聴くと、さすがに事が深刻であると察したのか、子供達は何も言わなくなった。……というより、そろって悲しそうな顔になった。
少し、大げさに言いすぎたのかもしれない。
若葉は心中で慌てたのだが、それでも何とか気を落ち着けさせて、子供達にやんわりと笑いかける。
「そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。センセイならきっと、何とかしてくれます」
「本当?」
「子猫さん、大丈夫なの?」
「はい。ですから、今は我慢してください。いいですね?」
『は〜い……』
意気消沈といった態で、返事をする子供達なのだが……それから、自分の部屋に戻っていこうとする者は誰一人とていない。
おそらくは、この子猫の無事を確認しないと気がすまないのだろう。自分にも何か手伝わせて欲しい、と言う意思が伝わってくる。
――皆、然るべき人物から愛情を受けずに育ったと子達だと言うのに、たった一つの小さな命へと愛情を向けることが出来る。
優しい子供達だ、と若葉は思った。
自然と、胸の中が温かくなると共に、ならば今この子達が出来ることを、若葉は指し示してやることにした。
「では、誰かセンセイを園長室から呼んできてくれませんか。あと、洗面所に大きなバスタオルが仕舞ってありますから、それも誰かが取ってきてください。あと、この子の身体を拭く用のタオルも」
「はーい」
「わかったー」
数人の子供達が玄関から廊下へと散っていく。
残った子供達と若葉は、玄関ホールの中央にある応接机に移動し、机の上に布に包んだ子猫をそっと横たえる。
子猫は未だに目を閉じて丸まっており、微かな動きしか見せていない。一つ一つが、本当に弱々しい動作だ。事は一刻を争うかも知れない。
子供達も、固唾を呑んで子猫の一挙手一投足に見入っている。
……程なくして、一人の子供が、若葉の言っていた折り畳みのタオル一式を持参して玄関ホールに戻ってきて、更にその数秒後に、
「おおぅ、おかえり、若葉っち。なんか大変なんだってな」
「あ……重三センセイ」
別の廊下から、呼びにいった子供と共に一人の長身の老人が姿を現した。
オールバックの白色混じりの短髪。土気色の細い輪郭に、ぎらぎらと生気に漲っている細い目。長身に似合わぬ痩躯であり、緑色の浴衣に包まれたその体躯は木の葉のようにひらひらとした印象がある老人だ。
「センセイ、この子のことを診てもらえますか」
「よし来た。下手な動物医よりも、この鈴木重三センセイにお任せってな」
センセイこと鈴木重三(すずき しげぞう)が快活に笑ってこちらに歩み寄ってくる。
若葉は一つ安堵の息をつき、未だにずぶ濡れである子猫の小さな体躯を丁寧に拭いてやってから、大きめのバスタオルに移し変えて、それから重三に見せようとしたところで。
――ボンッ、と。
大きめのバスタオルに移し変える過程の中で、小さな爆発……というより、その変化は起こった。
若葉の手の中でひょいとした軽さは、いきなり人間の子供レベルの重さにまで切り替わる。
「……!?」
一瞬、その手の中にあるものを落としかけてしまったが、かろうじて若葉はそれを阻止。
代わりに、自分がバランスを崩す結果になり、カクンと力が抜けて両膝を思い切り床に打ち付けてしまう。
「〜〜〜」
正直、ものすごく痛かった。
い、一体何が……。
涙目になりつつも何とか痛みを堪えつつ、その手の中に在るものに視線を移してみると。
「――――」
自分の手の中というより腕の中で、一人の裸の少女が、持ってきたバスタオルに包まれる形で眠っていた。
年齢にして十歳くらいだろうか。今、ここにいる子供達とそうは変わらない体格だ。
猫っぽさのある幼い顔立ち。短い髪に、飾りのようにぴょこんと頭に付いているのはどう見ても猫の耳。――よくよく見れば、下の方にも、拾った際に若葉が注視した、二本の尻尾が付いている。
……猫が、人間に?
いきなりの展開に、若葉は当惑する。
子猫を抱き上げた際に感じた違和感と言い、今ここで子猫が少女に変化したことといい、さっきからいろんなことが重なりすぎて頭の中は少々混乱気味であるのだが、
「ね、猫が子供になっちゃった……」
「お、おれ、夢見てるのかな……」
子供達も、その瞬間をしっかりと目撃したらしい。
つまるところ、さっき拾った子猫=この少女であるという事実は、満場一致のようだ。誰もが疑惑の眼差しで、若葉の腕の中にいる少女のことを注視している。
そして……誰もが混乱するこの場にあって、ただ一人、さして動じた様子もない重三はというと、
「……なんだ。若葉っちは、このネコミミモードなロリっ娘とお医者さんごっこをさせるために、俺っちを呼んだのか?」
「違いますっ!」
「しかも裸っておまえ……俺、この齢になってまで捕まりたくないんだけどなぁ。一応世間には前科ナシで通ってるわけだし」
「ですから、これには少々ワケがあって……!」
なんだか妙にのほほんとしている重三に対し、若葉は混乱と焦燥を交えて全力の否定を示した。
何はともあれ、これ以上の混乱は避けるべきである。
若葉と重三は、一旦、周囲の子供達を部屋に戻すことにした。子供達はこの少女の正体が気になって気になってしょうがないようだが、そこは重三のお願いで納得してもらった。
普段は私の言うことを聞かない程にやんちゃな子達だというのに、ただちょっとお願いをするだけこの子達を頷かせることのできる重三センセイって本当にすごいなー、などと若葉は思いつつ。
「……とにかく、この子の命に別状は無いのですね」
「ああ。ちょいと見てみた感じ、疲れてるって感じだわな。だが、風邪を引いてるってわけでもなさそーだ。力を使い果たした、もしくは何かに削られたって線か」
重三の私室の白いベッドにて件の猫耳の少女を寝かせてから、重三は今の少女の容態をそのように評した。
ちなみに、今の少女は先程のようなバスタオルに包まれた裸のままではなく、きちんと紫の浴衣を着せている。もちろん、着せたのは若葉である。
「しかし……驚きました。まさか、こんなことが起きるなんて」
「そうだなぁ。確かに珍しいといっちゃ珍しいかも知れねぇ。俺っちは見慣れてるんだけどな、こういうの」
そして、重三の見立てによって。
この子は人間ではなく、人間の姿に化けることが出来る化け猫である、という結論が出されていた。
重三の家系が妖怪とかそういう類のものに馴染みが深く、重三自身も関連のものについては博識で鑑識の経験も豊富であるだけに、間違いはない。
「まあ、だからといって野に放るってこたぁできねぇ。まだまだ子供のようだし、とりあえず目を覚ますのを待とうや」
「え……は、はい。そうですね。いつ目覚めるか分かりませんけど――」
「んにゅ〜」
と、会話の最中で、猫っぽい唸り声。
見ると、少女が瞼を薄く開けて起き上がろうとしている。
どうやら、気が付いたらしい。
緩慢な動きで身を起こし、『くぁ〜』と一つ大きく欠伸。寝惚け眼で辺りを見回している仕草がとても可愛らしい。
「……センセイ」
「ああ、思ったよりも元気そうだ」
「…………」
よかった、と若葉は素直に思った。
「目が覚めましたか?」
「……?」
安堵と共に若葉が声をかけると、少女はこちらを向いてから――視線の焦点が合い、大きな瞳を見開いて、
「ふかーーーーっ!」
全身を総毛出させて、こちらを威嚇――否、警戒し始めた。
興奮状態にあるのか、猫耳も二本の尻尾もピンと上を向いており、その上、小柄な体躯の全身から妙なオーラらしきものが沸き立っている。
掛けられていたシーツも跳ね除けられ、ベッドの上ですっかり臨戦態勢だ。
「あ、あの……」
「ふーっ!」
いきなりの少女の豹変にたじろぐも、若葉はめげずに近寄ろうとするが……少女の獰猛な視線の鋭さが衰える様子は無い。
しかも、いつの間に出てきたのか、両の五指には長く鋭いとも言える爪がジャキンと姿を現していた。
引っ掻かれると正直とても痛そうだ。
やはり、普通の少女ではないと言うことか……。
「若葉っち、ちょっと退いてろ」
「セ、センセイ」
「興奮で妖気の制御を出来てないようだ。ま、無理もあるめぇよ。何らかの理由で気ぃ失って、目が覚めたらいきなり見たことのない場所で眠らされてんだ。この反応も妥当だぁな」
重三は軽くニンマリと笑いつつ、若葉の肩をポンポンと叩いてから前に立つ。少女はなおも警戒してオーラを沸き立てさせるも、重三は涼しい顔で『ちっちっち』などと手指を降りながら近づいていく。
やがて、少女の手の届く距離に達したとき、
「ぎゃうっ……!」
少女の右手に生えた鋭い爪が、重三の腕を引っ掻こうとするが――
「……!」
その爪の先端が、皮膚に浅く刺さって、そのまま止まった。
出血もなければ、重三が痛そうな様子を見せてもいない。
少女は目を見開いて驚いたようだが、重三の方は変わらず涼しい顔で、ただやんわりとその小さな右手首を取って見せる。
「はっはっは、俺っちは昔、仲間から『鋼の重ちゃん』と呼ばれててな。その通り名のとおり、体の頑丈さは今でも衰えてねぇってわけだ」
「…………」
「それに、その程度の妖気じゃ俺っちには敵わねぇ。だから大人しく――」
ぷす
口上の途中、少女の爪の先端が、重三の肌ではなく両目に直撃した。
「……ぎゃあああああああああっ! 目が、めが、M(メガ)ーっ!」
いくら体が頑丈でも、目まではそうはいかない。
無論のことながら、重三は両目を押さえてごろごろと床を転げまわった。
「セ、センセイ……!」
「ふーっ!」
さらに、興奮中の少女は追い討ちをかけると言わんばかりに、オーラが漂う空間にポクポクポクと何やら黄色い鬼火らしきものを発生させ――床を転げている重三の方へと狙いを定めている。
いけない……!
反射的に、若葉は動く。
幸い、少女の意識は重三の方へと向いており、警戒されることなく近寄れたのだが――
「にゃあっ!?」
「……!?」
何もない床で足をつまずかせてしまい、若葉は少女の近くで前へとつんのめった。
ずるべたーんっ!
という効果音付きで、勢い抱きつくような形でベッドの上の少女を押し潰してしまう。
「いたたたた……」
「……! ……!」
「わっ、ご、ごめんなさい……!」
自分の胸に顔を埋める形で少女がバタバタと手をバタつかせているのに、若葉慌てて退こうとするのだが、足をもつれさせた影響なのか、力が入らずになかなか退くことができない。
若葉が必死に体勢を立て直そうとする間にも、少女はバタバタともがいていたのだが……程なくして、それが徐々に大人しくなり始めた。
一瞬、窒息してしまったのだろうかと思い、焦燥と共に若葉がやっと体勢を立て直したのだが。
「にゅ〜……」
立て直した後も、少女が自分に抱き付いてすりすりと頬を寄せているのに、若葉は当惑した。
さっきまで獰猛と警戒の限りだった顔も、今はすっかり緩くなっている。いや、これは心地良さそうとも表すことが出来た。
……もしかして、私に甘えてる?
「なるほど、偶然なりとも、若葉っちの包容力ってものが功を成したようだな」
と、当惑している間にも、復活したらしい重三が軽く声をかけてきた。
「あ、センセイ、大丈夫ですか?」
「ああ、サンカーンアタックはさすがに効いたぜ。この猫耳娘、なかなか味な大技知ってるじゃねえか」
サンカーンアタックってなんだろうと若葉は思ったのだが、そんなことよりも。
重三の目は真っ赤だったが……失明していると言うわけでもなさそうだ。この点に於いても頑丈なのかもしれない。
閑話休題。
「ところでセンセイ。包容力って、私のどこから一体どんな……」
「うん、ぶっちゃけて言えばおっぱいだ」
ぶっちゃけ過ぎだった。
……まあ確かに、どんな子供でもこういう風にされると落ち着くと、話には聞いたことがあるのだが。
「私、言うほど大きくないのですが……」
「いーや、八十四のCとなりゃ充分だろ。巨乳の一歩手前ってところだな」
「はぁ……って、なんでセンセイが私の胸のサイズ知ってるんですかっ!」
顔を真っ赤にしつつ叫ぶも、重三は『ゑー』と声を上げつつ、当然のように、
「そりゃおめぇ、十年以上の付き合いなんだから見てりゃ分かるってもんだぜ。勘も少々混じってるけどな」
「センセイ、それ思いっきりセクハラ発言ですからねっ。まして、女性が気にしている胸のサイズを勘で当てようとするなどと……!」
「あ、勘で言うのは拙かったか。んじゃ、実際揉んでサイズ確かめてみようじゃねぇか。ホラ、若葉っち、カムヒア」
「カムヒアじゃありませんっ!」
こんな感じで、二人になった時はわりといつも通りといえるトンチキなやり取りをしている最中。
未だに、自分の胸に顔を埋めている少女はと言うと、
「藍さま〜」
そんな緩い声を上げ、するすると若葉の胸に頬を摺り寄せたりしていた。